船越海岸は、名瀬から約50kmの距離。車で1時間30分はかかる。大和村を通り、宇検村の西の端にあたり、山を越えると枝手久島がすぐそばだ。
海岸線は、アップダウンの多い、山道を通る。
大和村の海岸線を走ると、徳浜の断崖という、名所がある、トンネル手前に展望台があり、コバルトブルーの海と、切り立った絶壁が望める。
奇岩と透明度の高い海の景観は、一見の価値ありか?
海岸沿いの道路は、山を越え続いているが、海の色が美しいので、つい車を止めて
景色を眺めてしまう。
国道を通って宇検村側から行く道が、早いようだが、今回は、大和村から海の景色を見ながらドライブ。
誰かが、ペットボトルのゴミを捨てているのか、と思って見ていたら、對馬丸の慰霊の碑があった。
1944年8月22日にアメリカ潜水艦の魚雷攻撃により沈没し、1400名以上の学童らが犠牲となった疎開船(対馬丸)の慰霊碑。なのだ。まったく知らなかった。
同碑から北東140キロの悪石島沖合で、米軍の攻撃を受け沈没した6日後、生存者2名が
漂着。村に助けを求めた。当時の様子を語る安徳さん(当時17歳)生存者の話を頼りに伝馬船に乗り急行。同村全体で21人を救出したとのこと。
だが、救助作業が一段落した数日後に村に憲兵が現れ、村民達に厳しいかん口令が敷かれた「絶対にこのことを口外するな」
さらに数日後には、流れ着く遺体の埋葬作業に追われた。サメに食われたのか、夏の強烈な日差しのせいか。損傷に激しい遺体が多かったという。
「まともな感覚ではとても埋められない」と、酒をあおって臭覚をまひさせながらの埋葬作業だったと言う。
8月21日、沖縄の那覇港を出た対馬丸には、1788人が乗船。そのうち834人は疎開学童だった。犠牲者は少なくとも1484人とされている。
こんな、美しい海の広がる村に、戦争の傷跡が残っていて、悲しい歴史を語り、伝える人がいる。合掌。
波もなく、本当に静かな海。トイレと水もあるのだが、今日は誰も泳ぐ人がいない。
潮が引いている時間帯なのか、サンゴ礁が水面ぎりぎりに出て、透明な水にきらきらと光っている。
大きな塊状ハマサンゴとユビエダハマサンゴ
葉状コモンサンゴ、周りは枝状コモンサンゴの群生が広がる
塊状ハマサンゴの下には、
テンジクダイ科のイシモチだろうか?群れで隠れている。
枝サンゴの群体、浅くて泳ぐスペースが少ない、満潮でないと、シュノーケリングは難しい、すぐにサンゴの群体に道を塞がれ。行き場を失ってしまうのだ。
船越海岸は、美しい珊瑚礁の中に、悲しい歴史が刻まれていた。たまたま地図で見つけた西の突端のビーチで、貴重な出会いがあった。