たびとらの本と旅

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ウソつきの構造 法と道徳のあいだ  中島義道 著

世の中のニュースに対して、自分は何を信じたらいいのだろうかと、迷ったときに 哲学者の言葉ほど響くものはないかもしれない。

著者は、哲学塾カント」を主宰する哲学博士

 氏の著書を読むと、近所にいたらとっても付き合いたくないタイプの個性的な人間だろうなと思う人なのだが、その考え方はとっても明快で芯が通っているので、どこか小気味よく、その言葉に納得できるのだ。

 現代の価値相対化の時代において、すぐに人々の口をついて出てくる言葉がある。

それは「何が真実かわからない」と言う言葉である。 

しかし、そうであろうか?すべての人は、理性的であるかぎり、自分の内面的真実を知っているはずである。それが混濁し見通せないように思われるのは、そこに知らず知らずのうちにソン・トクを混入させるからなのだ。

 ・日大アメフト部の内田前監督や井上コーチの会見、

 ・森友問題、加計問題に関する安部首相、菅官房長官、麻生財務大臣、柳瀬元首総秘書官、佐川元国税庁長官の言葉にはまったく誠意を感じない

われわれは、言語の内容や証拠だけではなく、それ以上に、語り方や語るときの身振りや目つきなどの「身体言語」によって、かなりの程度真実は見抜けるという

「ウソつき」とは自分が真実を語ると損をする状況において、適正法をもってすべての基準とし、それ以上道徳性を追求することがない者。

 真実に対して「尊敬」を抱くことがなく、何にせよ法的に正当化されれば、それで問題はないとする者。しかもこのことに対して良心の呵責のない者、すなわち心を痛めることのない者のことである。

 カントは、外形的に適法的な行為が内面的真実を伴っていないことを、あらゆる悪の中で最大のもの、これ以上醜悪な悪はないほどの最も醜悪な悪とみなした(根本悪)

 国会における一年以上に及ぶ野党議員たちによる激しい追及にもかかわらず、こうしたウソの正体をとらえきれず断罪できないのは、どうしてであろうか?

 その根本原因は、近現代の法治国家は、法を尊重する余りに、法的正当性がすなわち道徳的善だと思い込んでいることによる。

 法のレベルで勝てば、すなわち身の潔白が保証されると信じていることによる。

 われわれは、外面的な適合性を第一にして内面的な道徳性を第二にするという転倒を犯してしまう。

 カントはこういう態度を徹底的に糾弾した。カントは幸福を真実性より優位に置くという転倒に基づく限り、その「幸福(らしきもの)」は「幸福を受けるに値しない」と言い切った

 すなわち、幸福を真実性より優位に置くという転倒した人生は生きるに値しないのである。とくに内面の真実を求めようとしない人生は、いかに幸福に見えようと生きるに値しない。

 幸福のためにウソをつくことは、善ではなく、はっきりとした「悪」であることは、いささかも揺るがないのである

◎この本のあとがきに、この著者の哲学者として発する応援の言葉が語られている。

 「たとえあなたが組織を相手に敗訴したとしても、法的判断は完全ではない、人間には、法よりずっと重要な道徳という領域が開かれているのだ。(真実を貫いてソンをした自分は人間としてどこまでも正しく、ウソをつきとうしてトクをした相手は人間としてもっとも下劣だ)と信じるようにしよう。

 「真実」こそ人間としての最高の価値であり、相手はそれを失ったのであるが、あなたはその最高の価値を失っていないのであるから。

◎哲学は生きること、食べることに何の役にもたたない学問であると言われ、そうである部分も大いにあると理解しているが、

 この本を読むと、現在の日本の中にはびこる根本悪の正体が何であるか、そしてもし、あなたがその組織に一人で戦いを挑まざるおえなくなったとしても

「内面の真実を守り続け」そして敗れたとしても、人間として正しく生きる価値を失わないことが大事なんだと、勇気づけられる良書。

 

ウソつきの構造 法と道徳のあいだ (角川新書)

ウソつきの構造 法と道徳のあいだ (角川新書)

  • 作者:中島 義道
  • 発売日: 2019/10/10
  • メディア: 新書
 

 

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バリ島の演劇(独特の衣装とダンスの優雅さに見入ってしまう)

 

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火の回りに集まる男達の歌声、神への祈りか